昭和43年9月21日 朝の御理解第58節


 ただ今から、昭和43年9月21日朝の御理解を頂きます。御理解第58節「人が盗人じゃと言うても乞食じゃと言うても腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃというても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」しっかり信心の帯をせよ。これはひとつの大きな悟りを開いておる人の言葉であると思います。悟りを開かして頂いておる人なら、これが出来るかもしれませんね。人が馬鹿と言おうがアホと言うが乞食じゃというて、泥棒じゃと言うてもそれは腹が立つ段じゃない。そういう様な根も葉もないことを言う人が哀れに見えてくる。気の毒に見えてくる。ところが私共の場合、大きな悟りを開こうと努めておる分なんです。大きな悟りを開かしてもらおうと一生懸命精進しておる。ですから、腹を立てると言うことが本当じゃなかろうか。もし腹が立たんというなら、それはそのほうが私たちの場合はですよ。おかしいんじゃなかろうか。それは悟りすました顔をしておるだけじゃなかろうか。腹をたてるからこそ、私は本気で信心の帯が出来るのじゃなかろうか。腹が立つからこそ、そこから信心の帯が出来るのであります。これが信心をしておりませんとね、腹を立てるところに喧嘩になったり、言うて返したり、いわゆる争いになったりするわけですけれども、信心させて頂くものは腹を立ててもそれを持っていくところは神様ですからね。これは私がよりもっともっとおかげを頂きさえすりゃあいいと言うことになる。そこに信心の帯と言うのは出来るのじゃなかろうか。腹は立つけれども、立てるたんびに信心の帯がしっかり締め上げられている。そして本当になるほど神様が見拾うのだなあ。神様が見ていてくださるのだなあということが体験できる。だから、大いに腹を立てなければ、いけん。腹も立てきらんものは馬鹿だとこれは馬鹿とアホで道たらけのあの馬鹿じゃるい。おかげを頂けん馬鹿。こう言うことをされたり、こう言うことを言われたりしてから、腹も立て切らんでは信心が出けん。私が悪かったですけん。どうせ私が悪ですけんと言うような事ではおかげにならん。大いに腹を立てるがいい。腹をたてるからこそ、今まで出来なかった信心も出来るのだ。そういうときに神様は見てござるのだから、そういうときに神様が見てござるのだから神様がちゃんと知ってござるのだからとたとえばね、それで自分を慰め、そしてそこで信心の帯も出来てござるならです。腹がたたん力が出る。しっかり信心の帯を締めよ。それはそうですよね。泥棒しようらんのに泥棒と言われりゃ腹を立てるのは当たり前。物もらっとらんのに乞食と言われりゃあ腹が立つ。立てにゃ、嘘立てるのが本当。ただし信心させて頂くものは腹が立てば、立ったでそれを神様へ向けて行く。それがいよいよ信心の帯になっていく。ですから、根も葉もないことを言い立てられる。いつ私がそういうことを言うたか、したかと言うて腹を立てるのではなくてその腹立ちを信心の帯に変えて行こうというのである。それだけでもね、大変。実を言うたら、本当の信心をしよらないと出来るこちゃない。真の信心で目指しておらなければ、出来ることじゃない。昨夜の御祈念の後に頂いた御理解の中にね、私共の信心が。金光様の信心はどこまでも生き神を目指す。金光様の信心を頂いているものは、すべてが生き神を目指す。そういうところからですね。生き神とは、人間形成のビジョンであり、目標でありますと言うふうに書いてある。「生き神とは、人間形成のビジョンであり、目標であります。人間を作っていくいわば、心を作っていくと言うことであります。人間作りではない、心づくりだと信心は心がでけていくところによりよい人間形成と言うものがでけていく。人間がでけてくる。心が出来ずして人間が出来る。それは嘘だ。それは昨日も若い人たちがここで熱心に信心の稽古が出来ておる。実に熱心に出来ている。それが結婚してもう子供が出来て菜か睦まじゅうやって行きよった。ところが最近お母さんともいわゆる嫁姑の間にいろいろ問題がいわゆる問題が問題を生む。それが乞食だと言われた分でもでもなからなければ、泥棒と言われた分でもないのに腹が立った。それこそ涙が出るほど腹が立った。お母さんはもうその嫁がその人が泣き出すまで何かべちべちいわしてやる。話を聞きよってから、それこそ話を聞きよる方も腹が立つ。ござる分である。それも何でも無いこと。お母さんがニンニクを食べらっしゃる。この頃便所がえらい臭い。ニンニクを食べると便所が臭い。「この頃お母さん、ニンニクを食べなはるな。えらい便所が臭い」たったそれだけの事が問題になる。そういうことなら、あんただけの便所を建てなさい。こう言う私が言えば、お宅のお母さんがいちいちおっしゃる。それこそニンニクを食べたらいかんというた訳でもないのにお母さんがちょっとした事に曲がらっやる。いわば、そして近所に主人の兄弟がおると兄弟集めては、ぼそぼそ話されるけん。こっちらもまざってから、ぼそぼそ悪口いうござるというふうに、***そういうようになっていく。今日はそんな悩みを持って参ってきた。だからですよ。信心をさせて頂いておっても今王様といわれるけれども、その金光様がですね。楽になりたい。おかげを頂きたいと言うような願いであれば、必ず、そういう問題が起こると私は思う。そういう問題がおきてもよか。あんたがあれだけ信心を頂いておったのは、初めの間は良いお母さんであり、よい兄弟であったのか。段々そういう風に一年経ち、二年経つ間にそういうことになっていく。もう別居でもしようるござるふうな事になってきた。いわゆる楽をしよう。楽をしようではなく、そういう雰囲気が嫌だから、別に別れた方がいいと言うようになってきた。だから、腹を立ってもそういうことになってはいかんとですよね。今日私が腹を立てると言うのは腹がもやもやするから、親と別れるけん。いわば、腹が立つ、腹が立てば立つほどにその腹立ちを神様に持っていく。そしてそこに信心の帯をさせて頂くことによってです。これはお母さんじゃあなかった。そうじゃあなかったと言うことになる。そういうふうな例えば、頂き方の中から、信心の帯が出来ていくのですけれども、ただ自分がおかげを頂きたいと唯円満に家庭が行くことだけを願いとするような事では本当にはならん。私共が本当に信心を目指し、信心が目的、信心とはいよいよ真心になっていくと言うこと、信心といよいよ自分の心が神心になっていくと言うこと。そういう信心を目指しておかなければ、そういう信心が目指しなんです。いわば、生き神とはここに神が生まれると言うことであってみんなも子のようなおかげが受けられるとおっしゃる。そういう生き神を目指しておるのだ。だから、そういうような腹の立つ問題が人間形成の上にお役に立つのである。ですから、これはね、大きな悟りを開くとこういう。大きな悟りをいわば、開かして頂くための過程なんです。大きな悟りを開かして頂けば、それこそ泥棒だと言われても乞食じゃと言われてもです。根も葉もないことを言われても腹も立たんかもしれんけれども、まだ、その過程であるから、生き神になるための途中である過程であるから、腹が立つ、腹も立つからしっかり信心の帯をする。神様のお気付けを頂いた事にもなる。そこでお気付けを頂くのであるから、そこで本気でまず、信心をやり直さねばいかんということになる分です。昨日菊栄会も終わりかけにいつまでも話をしよりますから、私もちょっと語らせてもらいました。だから、遅うなってから、夕は一時半でしたでしょうか。それまで話をさせて頂いたり、聞かせて頂いた中に正義さんと文男さんがお話をしておるんですよ。おかげを頂いてから、今頃はもうどんな商売に出ておってもどんな仕事をしておってもですね。私はそれを聞かせて頂いてから、「おかげを頂いてきよるなあ、もうほうからかしてもよかちゃと私は思いました。本当に菊栄会の人が全部そういう気持ちになったら、もう素晴らしいなあと私は思ったんですけれど、みんながみなそうでない。この頃はね、全然腹が立たんようになったと二人が話おる。ところがね、合楽にくると腹が立つ。教会にくると、はあ、素晴らしか、私は文男大明神になりよるばいと私は申しました。なぜかというとですね。明神様になるからなければ、腹を立てなさらん事に腹をたてとるからなんですよ。私もそれを感じるです。はあ、これは私の腹立ちじゃあないなあ、神様の腹立ちだなあと言うような事があるのです。皆さんでも、あるでしょうがこれはおかしと私の腹立ちじゃあないその証拠にはその腹立つ底にはですね。にゃあと笑うような物が必ずあるですよ。ゆとりがあるです。それで腹が立つことは無情に腹が立つ。これは私じゃあない。神様の腹立ちだ。いわゆるこれは、文男明神様の腹立ちばいというて話した事でございますけれどもね。合楽におって腹が立つと言うことはございますけれどもね。合楽におって腹が立つと言うことはお参りしてくると腹が立つと言うことではない。ここでいろいろ話を聞くことが腹が立つ。私は本当に例えばなら合楽の場合ですね。言うならば、泥棒じゃ乞食じゃと言われんにしても理不尽な事がいろいろ周囲から起きてくるのですよ。そういうことを聞くともう無情に腹が立つ。本当にこの頃は私はおかげを頂いてから、もう自分方の仕事の現場においてはですね。お互いの各々の働きの現場においては、腹の立つことはまずなくなった。けれども、合楽へ出てくると腹が立つ。それをそういうように聞くと、だからこれは如何に教会を思うておる教会愛がそうした腹立ちになってくるのだと思うのですよ。私、本当に大いにですね。そういうような腹が立つなら、立ってもらわなにゃあいけんと思うです。どうして、それは教会が繁盛せん。聞いたって腹が立つようになる。よし、これは私たち信者の一人一人がもっともっとおかげ頂くよりないのだと言うような信心の帯を締めてもらわにゃあ、自分の事に腹の立つばってん、教会の事には腹の立たんというのは、信者の一員とは言えん。自分の小さいことにはぷりぷり腹をかく。教会の事になったら、教会がどういうふうにあいよったちゃ腹も立たんござることではね。私はその教会の発展もないが、各々の信心もおかげにはならんと思う。わたしどもでんでん幹部の人たちが腹立てなさるけんでと言うことじゃつまらん。今日はこの58節を教祖様が本当に生き神様と言われるような立場でね。これはおっしゃっておられるお教えでございますから。いうならば、まあだその過程にある道すがらの人に対しての泥棒じゃと言われてもいいじゃあないか。乞食と言われてたっていいじゃないか。もらわねば乞食じゃなか、人のものをとらなければ、いいじゃないか。もらわねば乞食じゃなか。人の物をとらなければ、泥棒じゃない。神がちゃんと見ておるから、しっかり信心の帯を締めよとこう言うふうに教えておられるだけのこと。教祖様はそこを頂いておられる。けれども、私共はやはり腹をたてにゃあいけん。乞食じゃないのに乞食じゃと言われて腹を立てにゃあいかん。それをです。ばばさんごと喧嘩するじゃあつまらん。嫁ごと喧嘩するじゃつまらん。そのことによって、それを神様へ持っていく事のためにもです。生き神とは人間形成のビジョンでもあり、目標でもあると言うところが自分のものになっておかんとです。いわゆるばばさんと喧嘩することなる。嫁ごと喧嘩するようなことになってくる。それじゃあ、これをもういいよ欲になってしまいます。腹を立てる事によって信心の帯がきりっと締め上げられるところに腹立ちの値打ちがある。私がおかげ頂く以外にない。もっともっとこれを教会的にいうならば、合楽の教会がもっともっと盛んな御非礼頂く以外にはない。それが私共が一人一人がもっとおかげ頂く以外にはないとそこに信心の帯が私は出来る。そこに初めてしっかり信心の帯をせよとおっしゃる信心の帯がでけて行くのじゃあなかろうか。泥棒はしとらんもんじゃから、乞食はしとらんもんじゃから、神様は見てござるからと言うてですね。だーっとした信心は帯もしっかり出来やあしません。今日は大いに腹立ちのいわば、礼賛のお話でしたね。だから、もちろんその腹立ちが神様が腹立っておんなさるじゃなかろうかと思うような腹立ちも向上していかならんことはもちろん、そしてその腹立ちの都度にお互いの信心の帯がしっかり締め上げられて行くと言うおかげを頂くために大いに腹を立てさせてもらわならん。ところがです。自分の痛いところつかれた。だから、腹を立てる。これは、つまらんですばい。本当に痛いところつかれたんじゃから、仕方がないじゃないか。本当に泥棒しとるならば、泥棒と言われても仕方がないじゃないか。それを腹かくような事じゃあいよいよつまらんです。いわゆるつまらん事で腹を立てる沢けもないのに腹を立てると言ったような事じゃけん。いうならば、神様の腹立ちででもあろうかという腹立ち。それは私共が生き神へまだ過程であるから、それなのに大きな悟りも開けていないのに悟り済ました様なことでは信心は向上しません。大きな悟りでのまた、生き神への一つの道すがらの道程である。いよいよ人間形成のなされていっておる。それが要素でなからならん。そこで私たちはです。目標と言うものを高いところにおいた信心、言うならば、本当の信心を目指しその信心、唯おかげを頂きたいと言ったような願いであったら、問題にならないような事が問題になる。


本当に悪口言われても仕方がない。そういう悪口を言われて腹を立てる様なことではいよいよつまりません。悪口を言われるような自分であるならば、それはもう言われたっちゃ仕方がないじゃないか。それに悪口を言うたと言うて腹かく。そういう腹立ちはつまらん。どこまでも、私は神様が腹を立てなさるとじゃなかろうかと思われる様な腹立ちを大いに立てさせて頂いて、そしてそこから、いよいよ信心の帯をしっかり締めていかにゃあならんと思う。どうぞ。